この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。
そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、
召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
ダニエルは言った、 「神のみ名は永遠より永遠に至るまでほむべきかな、 知恵と権能とは神のものである。
そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。
ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。
恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。
今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。
十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。
それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。
しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。
ところが、母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、
神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。
御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。
神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、
御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。
わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、
そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。
不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。
信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。
かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。